第3回 役に立たない無駄なことだとなぜわかるのか?

「妻とはもう終わっているんだ。近いうちに離婚する。そうなったら、必ず君と一緒になる。だから、別れるなんて言わないでくれ。もう少し、待ってくれ」

 と繰り返す男の言葉に業を煮やしながらも別れられない女性がそれでも、

「私、もう待てない。あなたにとって三年なんてたいした年月じゃないかもしれないけれど、私にとって、いいえ、女にとって二十代後半の三年はぜんぜん違うの。もう、無駄にできないの」

 と言ったとします。

 さて、ここで不実な男と決別したら、この女性の無駄は、三年ですんだと言えるのでしょうか?

 

  アチョー!

 

「学校で教わる科目は、入試の他に役立つことはない」

 と言って、受験校の入試には課されない、たとえば、古典の勉強をしない生徒がいます。その科目を教授している、当の学校の先生の中にも、自分が教えていることは役に立たないことだと位置づけている方は少なくないようです。

 ただ、「役立たないから切り捨てる」という考え方ではなく、「切り捨てたから、人生のどこかの場面でそれが役に立つことはなかった」という逆の見方もできます。その際、「切り捨てていなかったらそれが役に立っていたかもしれない」という認識を持つことも難しいでしょう。捨てたものを思い出すことは、まずありませんから。でも、もしかしたら、捨てた男や女、家族は別かもしれません……

 

  アチョー!

 

 さて、今、取り組んでいることが人生で役立つことか否か、その判断基準はどこにあるのでしょうか?

 

 ところで、人間はどうでしょう?

「大病を患って自分は家族に迷惑をかけるばかりの役に立たない無駄な人間だから……」

 と、こぼされた方がいらっしゃいました。

「でも、あなたが生きてくれているだけでいい、という思いを、ご家族は持っているのではありませんか」

 そう申しましたら、その方の表情が、少し明るくなったように見えました。

 それでも、

「いや、私にそんな家族はいない。気遣ってくれるような人間など一人もいない」

 と、自身を振り返って断言する御仁もいるかもしれません。ですが、これも逆に、そう思うから、誰かが思ってくれていることに気が付かない、と言えるのではのではないかと思います。

 しかし、誰かに思われているかどうかなど関係なく、役立たずだの無駄飯食いなどと言われても、まったく意に介さない人間もいます。

 落語には、ろくでなしの役立たず、と女房にぼろをくそのように言われる亭主が、ごく当たり前に登場します。

 また、実社会には、上司や同僚から役立たずと思われたくないから働いているように見せてかけている人もいらっしゃるかと思います。(白状します。ワタクシがそうです。)

 

 アチョー!

 

「人生は退屈しのぎである」「人生は暇つぶしだ」と喝破する御仁もいらっしゃいます。言い換えると、本来、人間が必要で役立つ存在であるという思想は、幻想でしかない、ということでです。

 

 さて、無駄なこと、役に立たないことの正体は、いったい何でしょうか?