第8回 〝なりたい私〟をなぜ強いてはいけないのか?

 喫緊の敵は〝なりたい私〟です。

 ワタクシが高校三年生だった秋、三人の友人との間で、将来どうするかということが話題になったときに、友人は誰も〝なりたい私〟なんて明確なビジョンを持ってはいませんでした。中の一人は、

「家に帰ったら、温かいご飯とみそ汁が食べられる、それだけでいい」

 と、現代から考えれば、実にのんきな(もしくはジェンダー論に関わるような)ことを口にしていました。

 

  アチョー!

 

 ときどき依頼される講演で、

「正直なところ、〝なりたい私〟がない人?」

 という問いに、挙手する高校生は少なくありません。

 ところが、高校では、入試に必要な志望理由書を書かせるために、

「さあ、〝なりたい私〟を明確にして書きなさい」

 という指導をします。けれども、迷いなくそれが書ける高校生は、果たしてどれほどいるでしょうか?

 

  アチョー!

 

 そもそも〝なりたい私〟というワードを用いる指導は、どういうことを示唆しているのでしょうか?

 それは、先に正解を設定してからプロセスを明示するという、学校教育における既存の発想ではないでしょうか?

 具体的には、〝なりたい私〟=〝私の就きたい職業(仕事)〟に向けて、役に立つカリキュラムを有する、あるいは、資格の取得ができる貴学への進学を希望します、というシナリオを描くための方便のように思います。だから、表面上、ほころびのないように指摘する指導に終始することになって、

「最近の高校生は自分の将来についてしっかり考えてない」

 とか、

「ろくに文章も書けない」

 とか、嘆きながら、添削するという過重労働を、先生方は自らに課しているのではないでしょうか?

(それは違う! と断固としておっしゃる先生がいらっしゃったら、ゴメンなさい)

 

  アチョー!

 

 もちろん、〝なりたい私〟を明確にイメージできている人が、その仕事に携われるように努力を重ねることを否定するつもりは、毛頭ありません。

 しかし、志望理由書に記した〝なりたい私〟に向かっていたとして、あるいは、なれたとして、それから私はどう生きればいいのでしょうか?

 たとえば、医師を志してせっかく医学部に入っても、自分には向いていないと中途退学された方がいらっしゃいます。

 文系の大学で学ぶうちに、やっぱり建築を勉強したい、と建築が学べる大学に入り直した方もいらっしゃいます。

 高校時代に書いた〝なりたい私〟になっていたとしても、違和感を覚えて転職を試みる方も、少なからずいらっしゃいます。

 

  アチョー!

 

 むしろ問題は、〝なりたい私〟になってから、就きたい仕事についてから以降に生じるのではないでしょうか?

 ドラマなどでよくあるのが、自分の価値観と異なること、社会的には認められないと思われることに目をつぶって組織の大義名分に従え、と迫られる状況です。これに異を唱えると、

「もっと大人になれ」

 と言われます。拒めば、組織の中にあったはずの居場所を失います。

 実際の人生においても、こうした場面に遭遇する可能性が決して低くはないことを知る人は少なくありません。

 吉野源三郎さんの小説『君たちはどう生きるか』や宮崎駿監督の『君たちはどう生きるか』が人気を博し、高い評価を得ていることが、

「私はどう生きるか?」

「私はどう生きたいのか?」

 と、多くの人が自問していることを裏付けているのではないでしょうか?

 

 おそらく、定年退職後に直面するのは、〝なりたい私〟とは何か? ではなく、

「私はこれからどう生きていくのか?」

 ということではないかと思います。たとえ、〝なりたい私〟になっていたとしてもです。

 

 さて、どのように生きたいと思って、今、私はここにいるのでしょうか?