第9回 神戸市外国語大学2022年の現代文入試問題から考える事例。

 神戸市外国語大学の2022年の現代文は、隠岐さや香さんの『文系と理系はなぜ分かれたのか』より出題されています。

 出題の文章で述べられているのは、やわらかく言うと、「『生まれつきの才能』という考え方、特に、男女の違いだとか、人種、民族の違いだとかを根拠にして才能を論じることは差別につながるので、やめたほうがよい」ということです。

 研究調査結果を引用し、脳科学的な見解を示しながら、論を進めている評論文ですから、説得力があります。

 

 ところで、自分の才能の有無について考えた経験のある方は少なくないと思います。

 よく耳にするのが、少年野球から中学校で野球部に入り、さらに高校、大学と進むにつれて、自分に才能のないこと、自分以上に才能のあるものがいるということを思い知らされてあきらめた、といった話です。

 でも、誰かとの比較によって上手だとか下手だとかといったことにこだわらずに、自分で工夫してトレーニングを積むことの方が大切であると述べるプロフェッショナルも少なくありません。実際に、どのように考え、どのように工夫したか、というエピソードは、野球に限らず、いろいろ紹介されています。

 

 神戸市外国語大学の入試問題で出題された本文の趣旨としては、「生まれつきの才能が必要かどうかに関する問題の本質は、それが差別につながる」というところにありますが、ここから、身近に転がっている具体的な事例を考えだすことが、思考の遊びにもなります。

 

 たとえば、講談の世界では、かつては男の仕事であると断じていた先輩諸氏に肩身の狭い思いを強いられていた女性講談師も、現代では、特に東京では全講談師の半数以上の勢力を誇るほどになりました。

 小学生だった頃、算数の授業に納得がいかなかくて成績の振るわなかった方が、のちに数学を教える先生になっています。

 

 外国語を学ぶにあたって第一に重要なことは、良し悪しに関わらず、先入観、偏見を持たないことです。そのような学生を神戸市外国語大学が求めているのではないかと思います。

 

 大学の入試問題で、ちょいと遊んでみました。

 

  アチョー!

第10回 『レンガ職人』を『先生』に置き換えるとどうなるのか?

 『三人のレンガ職人』という寓話があります。

 旅人が、レンガを積んでいる男に、

「あなたは何をしているのですか?」

と尋ねたら、その男は、

「レンガを積んでいるんだ」

と答えました。

 次に、同じようにレンガを積んでいる男に出会った旅人が、

「あなたは何をしているのですか?」

と尋ねたら、

「壁を作っているんだ」

と答えました。

 さらに、レンガを積んでいる男に出会って旅人が、

「あなたは何をしているしているのですか?」

と尋ねたところ、

「大聖堂を作っているんだ」

と三人目の、その職人は答えました。

 

 仕事に取り組む心構えとして最近よく引用されているこの寓話をご存じの方も少なくないかと思います。

 これを、たとえば、先生に置き換えてみます。

 

 一人目の先生に、

「あなたは何をしているのですか?」

と問うと、

「勉強を教えているんだ」

と答えました。

 二人目の先生にも、

「あなたは何をしているのですか?」

と問うたら、

「勉強の楽しさを教えているんだ」

と答えました。

 三人目の先生にも、

「あなたは何をしているのですか?」

と尋ねたら、

「将来の人材を育てているんだ」

と答えました。

 

 答えは、これ以外にも考えられます。ほかの仕事にも置き換えることができるかと思います。

 ここから、〝なりたい私〟ではなく、〝どう生きたいのか?〟〝どんな人になりたいのか?〟を問うて、ディスカッションのテーマやレポートの課題にすることもできると思います。

 また、本題に入る前のツカミとしても使えるかと思います。

 

 てなところで、どないでっしゃろ?

 

 アチョー!

第8回 〝なりたい私〟をなぜ強いてはいけないのか?

 喫緊の敵は〝なりたい私〟です。

 ワタクシが高校三年生だった秋、三人の友人との間で、将来どうするかということが話題になったときに、友人は誰も〝なりたい私〟なんて明確なビジョンを持ってはいませんでした。中の一人は、

「家に帰ったら、温かいご飯とみそ汁が食べられる、それだけでいい」

 と、現代から考えれば、実にのんきな(もしくはジェンダー論に関わるような)ことを口にしていました。

 

  アチョー!

 

 ときどき依頼される講演で、

「正直なところ、〝なりたい私〟がない人?」

 という問いに、挙手する高校生は少なくありません。

 ところが、高校では、入試に必要な志望理由書を書かせるために、

「さあ、〝なりたい私〟を明確にして書きなさい」

 という指導をします。けれども、迷いなくそれが書ける高校生は、果たしてどれほどいるでしょうか?

 

  アチョー!

 

 そもそも〝なりたい私〟というワードを用いる指導は、どういうことを示唆しているのでしょうか?

 それは、先に正解を設定してからプロセスを明示するという、学校教育における既存の発想ではないでしょうか?

 具体的には、〝なりたい私〟=〝私の就きたい職業(仕事)〟に向けて、役に立つカリキュラムを有する、あるいは、資格の取得ができる貴学への進学を希望します、というシナリオを描くための方便のように思います。だから、表面上、ほころびのないように指摘する指導に終始することになって、

「最近の高校生は自分の将来についてしっかり考えてない」

 とか、

「ろくに文章も書けない」

 とか、嘆きながら、添削するという過重労働を、先生方は自らに課しているのではないでしょうか?

(それは違う! と断固としておっしゃる先生がいらっしゃったら、ゴメンなさい)

 

  アチョー!

 

 もちろん、〝なりたい私〟を明確にイメージできている人が、その仕事に携われるように努力を重ねることを否定するつもりは、毛頭ありません。

 しかし、志望理由書に記した〝なりたい私〟に向かっていたとして、あるいは、なれたとして、それから私はどう生きればいいのでしょうか?

 たとえば、医師を志してせっかく医学部に入っても、自分には向いていないと中途退学された方がいらっしゃいます。

 文系の大学で学ぶうちに、やっぱり建築を勉強したい、と建築が学べる大学に入り直した方もいらっしゃいます。

 高校時代に書いた〝なりたい私〟になっていたとしても、違和感を覚えて転職を試みる方も、少なからずいらっしゃいます。

 

  アチョー!

 

 むしろ問題は、〝なりたい私〟になってから、就きたい仕事についてから以降に生じるのではないでしょうか?

 ドラマなどでよくあるのが、自分の価値観と異なること、社会的には認められないと思われることに目をつぶって組織の大義名分に従え、と迫られる状況です。これに異を唱えると、

「もっと大人になれ」

 と言われます。拒めば、組織の中にあったはずの居場所を失います。

 実際の人生においても、こうした場面に遭遇する可能性が決して低くはないことを知る人は少なくありません。

 吉野源三郎さんの小説『君たちはどう生きるか』や宮崎駿監督の『君たちはどう生きるか』が人気を博し、高い評価を得ていることが、

「私はどう生きるか?」

「私はどう生きたいのか?」

 と、多くの人が自問していることを裏付けているのではないでしょうか?

 

 おそらく、定年退職後に直面するのは、〝なりたい私〟とは何か? ではなく、

「私はこれからどう生きていくのか?」

 ということではないかと思います。たとえ、〝なりたい私〟になっていたとしてもです。

 

 さて、どのように生きたいと思って、今、私はここにいるのでしょうか?

第7回 女神の求める条件とは何か?

「キミはボクの女神だ」

「女神? どういう女神なの?」

「美の女神に決まっているだろ」

「そんなの当たり前でしょ。それだけ?」

「幸運の女神だ」

「宝くじみたいに言わないでほしいわ」

「いや、幸福の女神だ」

「そうね、美しい幸福の女神ね」

「だから、ボクと一緒になってほしい」

「お断りよ」

「どうして?」

「アナタと一緒になったら、貧乏神に憑りつかれた、みすぼらしい女神になってしまうでしょ」

「でも、ボクはキミのために一生懸命に働くし、何より、愛があれば貧乏でも幸福になれるよ」

「アナタはね」

 

  アチョー!

 

 古今東西、人間が最も興味を抱く謎は、人間です。

 謎へのアプローチも、またその答も、一つではありません。十人十色、千差万別、多種多様。そこからさまざまな問いかけが新たに生まれます。

 かつて、山本リンダさんがお歌いになって大ヒットした『狙いうち』(作詞・阿久悠先生 作曲・戸倉俊一先生)の女性の如き、この幸福の美の女神を自認する女性は、もっと具体的に表現するなら、どのような女性だと言えるのでしょうか?あるいは、ほんとうのところは、どのような女性なのでしょうか?

 貧乏神と謗られた男は、どのような男だと考えられるでしょうか?

 振られる男が、意中の女性のハートを射抜くためには、どうすればいいのでしょうか?

 何より、この男を袖にした女神は、この先、幸福の女神であり続けられるでしょうか?

(何だか前回の続きで、もてない男の嫉妬心を吐露するような内容になってしまいました~)

 

  アチョー!

 

 さて、この女神と貧乏神の会話から、他にどのような謎が考えられるでしょうか?

第6回 対話によって字数稼ぎは解明できるのか?

 対話は、思考の方法として古今東西、用いられています。

 ソクラテスをはじめ哲学は、対話によって展開されています。

 論語では、弟子の問いに「子曰く」と答える形でその考えを示しています。

 禅宗で交わされる禅問答は、まさに実践的な対話です。

 では、弟子が師に問う対話を遊戯として使うと、どんな事態が発生するのでしょうか?

 

「先生! 作文の課題が出ると、みんな字数稼ぎに走るのは、どうしてですか?」

「それは、その、何だ。与えらえた課題について字数を満たすほど書けないからだろう」

「だから、同じことを繰り返し書いたり、課題とは関係のない一方的な話を書き並べたりして、字数を稼ごうとしているんですね」

「そうだ」

「でも、そうやって指定された字数を満たしたとしても、内容の充実した文章が書けたことにはならないのではありませんか?」

「まあ、そうだろうな」

「でうよね。だったら、字数稼ぎの末に何とか指定字数を満たした文章と字数を満たしてはいないけれど内容の充実した文章とでは、どちらが高い評価をえらっるのでしょうか?」

「指定字数を満たしていることが課題の条件だから、字数不足の文章に合格点が与えられることはない。少なくとも、大幅に減点される」

「つまり、内容の良し悪しによって評価されないから、みんな安易に字数稼ぎに走るんですね?」

「ん……、まあ、そういうことになるかな」

「だとしたら、字数を指定しなければ、評価は逆転しますよね?」

「そうはいっても、実際、どんな課題でも、特に小論文入試では、必ず字数が指定されているし、字数を満たしてなお、読み応えのある文章を書く者もいるだろ?」

「そうです。そういう人もいます。でも、そういう人のように、字数稼ぎに走らずに内容の充実した文章を書くためには、どうすればいいんですか?」

「そりゃあ、読書だろ。たくさん本を読んで知識と考え方を蓄えるんだ」

「つまり、文章力は、個人の読書量に左右される、ということですか?」

「まあ、読書量だけではないけどね」

「なら、読書以外で文章力が身につく方法を教えてください」

「授業でやってるだろう。原稿用紙の使い方とか、文末表現を統一するとか」

「そんな形式的なことなら、小学校からさんざんやってきています。ほかに、何かありますか?」

「新聞やニュースから環境問題なんか取り上げて書く練習もしているだろ?」

「それでも書けない、字数稼ぎに走ってしまう僕たちは、どうしたらいいんですか?」

「これ以上どうしたらいいかと言われても困るな」

「どうしてですか?」

「実は先生も学校で習ったことがないんだ……」

「え?」

「ということで、今日はこれぐらいにしておこう!」

 

  アチョー!

 

 さて、字数を指定することなく、弟子たちの文章作成能力の向上を図るには、どうすればいいのでしょうか?

第5回 「ジュースある?」にどう応じるか?

 問いや問いの答となる選択肢をいくつひねり出せるか?

 これが、【思考遊戯】をさらに面白くします。

 

 たとえば、帰宅した子どもに、

「ジュースある?」

 と言われたときに、どう応じることができるでしょうか?

 また、その応じ方は、いくつあるでしょうか?

 あるとき~!

・「ある」と言って冷蔵庫からジュースを出してコップに注ぎ、子どもの前に置く。

・「冷蔵庫にあるから飲みなさい」と答える。

・「宿題をすませてからね」と、あることを前提に飲むための条件を出す。

・(子どもがジュースを飲みたがっていることを察しながら)「ある」とだけ言う。

 ないとき~!

・「ないから、麦茶でも飲んで」と代替案を提示する。

・「ないから買ってきて飲みなさい」と命じる。

・「ないから、今から一緒に買いに行こう」と誘う。

・「ビール、飲む? 冗談!」とジョークでごまかす。

・(子どもがジュースを飲みたがっていることを察しながら)「ない」とだけ言う。

・(あってもなくても)「テスト、どうだった?」と自分の関心事を問う。

・(あってもなくても)「飲みすぎはよくない」と説教する。

・(あってもなくても)「トイレの掃除をしなさい」と関係のない用事を言いつける。

・(あってもなくても)無視する。

・リンゴとナイフを手渡して、ミキサーを指さす。

 

  アチョー!

 

 いいか悪いかを問わなければ、その他、いろんな応じ方が考えられます。

「そんなにたくさん思いつかない」という方は、習慣にとらわれているのかもしれません。

 もし、企画を仕事としている人なら、すぐにいくつもの応じ方を考え付くでしょう。 

 たとえば、広告を作成するために、依頼主に100の質問に答えてもらうという広告会社があるそうです。

 自己啓発の分野では、人生でかなえたい夢をいくつも書き出す、という手法が用いられています。大きな夢とか小さな夢とか、かなえられそうにない夢だとか、こだわることなく、とにかく書きます。

 あっちのけんとさんの『死ぬな!』(作詞作曲・あっちのけんと)という歌には、「願い事を三つ考えろ」というフレーズがあります。自ら命を絶とうとする人の、その思いをとどまらせる方法を示唆する言葉です。

 では、私には、どんな願い事があるのでしょうか?

 子どもだったころに、願い事はいくつあったでしょうか?

 書き出してみると、三つどころか、10以上、いえ100以上出てくるかもしれません。

 そうすると、さまざまな思いが交錯して、狭められていた思考の幅が広がる可能性も考えられます。習慣や常識にとらわれていた思考の枠が外すことができるかもしれません。

 

  アチョー!

 

 さて、私は、何について、いくつ問うことが、また、何通りの答をひねり出すことがことができるでしょうか?

第4回 死神に何を問うか?

 【思考遊戯】の醍醐味は、自ら問いを立てるところにあります。

 [誰に][何を][どう]問いかけるか、独自の問題提起から始めなければ、面白さや楽しさは半減します。

 と言って、「存在とは何か?」「幸福とは何か?」、といった、昨今流行りの哲学的手法による問いかけは、遊戯になじみません。

 

 アチョー!

 

 たとえば、『死神』という落語があります。もう死ぬしかない、と思っている男の前に現れた死神が、重篤の患者の生死の見分け方と、生きる可能性のある患者を快癒させる呪文を伝授します。おかげで、男は高名な医者になりましたが、死神の言いつけを破って死に瀕した患者の命を救ったがために、自らの命を縮めてしまうという噺です。

 この噺から、死神に、

「なぜ、その男を生かそうとしたのか?」

 と問うと、果たして、どんな答が返ってくるでしょうか?

 あるいは、他に、死神に、何を問うことができるでしょうか?

 

  アチョー!

 

 こんな話はどうでしょう?

 

 寝たきりのバァさんが、

「そろそろお迎えが来るようだ」

 と言い始めて三日目の夜だった。

 バァさんに寝返りを打たせてやろうとしたジィさんの傍に、妙な影がうずくまっている。

 目を凝らしてよく見ようとすると、

「死神だよ」

 と、それが言葉を発したとたん、闇の中にその姿が浮かび上がった。

 ジィさんは、恐怖も不思議も覚えないまま、

「ああ、お迎えか」

 そう口にすると、

「一つだけ、わしに問え。問いによっては、命を長らえてやろう」

 と、それは薄く笑ったようだった。

「面白いことを言うな。どうせなら、バァさんを一人で歩けるようにしてもらえると、ありがたい」

「願いではない。問いだ」

「ああ、そうだな……」

 ジィさんはバァさんに寝返りを打たせながら、しばらく思案して、

「バァさんは、極楽に行けるんだろうな?」

「悪くない問いだ」

 死神がそう言った刹那、しかし、ジィさんの心の臓は止まった。

 最期にジィさんの耳に聞こえたのは、バァさんの安らかな寝息だった。

 

 この物語から、誰に何を問うことができるでしょうか?

 

  アチョー!

 

 さて、どんな物語から、[誰に][何を]問いますか?