(ことのは学舎に書かれた)『怒りとハラスメントは依存症か?』を読んで考えたことを書きなさい。

「『怒りとハラスメントは依存症か?』を読んであなたの考えを述べてください」という課題について書かれた答案、A・B・Cの合否を判定してください。

 

答案A

 最近は、なにかと言えば、パワハラだセクハラだと言って、自分にある非を棚に上げて、注意する人を逆に非難する傾向があると思う。ハラスメントでもなんでもなく、正しいことを言って反対に非難されたのでは、腹も立つだろう。

 筆者が冒頭で例として挙げた昭和を象徴する人も、当たり前の指導をしていたのであって、それが今になってパワハラだと言われては戸惑うばかりではないだろうか。

 すぐに怒る人も昔は身近にいて、みんなそれなりに対応していたと思う。

 現代になってそれらを依存症だと主張することに、私は違和感を覚える。

 

合格・不合格

 

答案B

 私の父は、アルコール依存症で、飲んで何か気に入らないことがあると家族に暴力をふるっていた。暴力はハラスメントの域を超えていた。母と私は、そんな父の機嫌を損ねないように気を使っていたが、父は殴るために怒りの原因を探していたようだった。

 それでも、病院に行って自助グループに入ってから、父も少し落ち着いた。自分自身の怒りにどのように向き合えばよかったのかわからなかった、と後で父も話していた。

 怒りとハラスメントと依存症を別々に考えてそれぞれに対処法があるという考え方は改めなければならないという、筆者の考えに私も賛同する。

 

合格・不合格

 

答案C

 欧米流の、ものごとを詳細に分類して解明していくという手法は、縦割り社会と言われる弊害も日本社会に生み出したのではないだろうか。

 すべての事象にその考えが流用できるなら、筆者の述べるように、怒りとハラスメントと依存症が別々の事象であり、その対処法が異なるのは、まさに分類によって縦に割られた結果だと言える。それぞれの専門家が自分の庭ばかりを見て、隣の庭にどんな花が咲いているのか、知ろうともしない。

 筆者の主張は、社会問題を例として現代の日本社会に一石を投じているのだと思う。

 

合格・不合格

『落語の悪を楽しむ』について述べられた答案の合否を判定してください。

「(ことのは学舎に掲載された)『落語の悪を楽しむ』(ことのは学舎に掲載)を読んで、あなたの考えたことを述べなさい」という課題に対して書かれた答案A・B・Cの合否を判定してください。

答案A

 落語と講談は、座って観客に一方的に話を聞かせるというっスタイルは同じだが、その目的は違う。講談は、談を講じる、つまり、講義を行うことで、観客はその話から何らかの学びを得ようとして聞きに来る。落語は、落とし噺、つまり、最後のオチ、サゲで噺の締めくくりとする、まさに笑いを提供する娯楽であり、笑わせてくれなければ、観客は納得しない。

 課題文にもあるとおり、日本の悪が勧善のためにあるとしたら、落語の悪も笑いのための必要悪であって、その悪について論じて楽しむというのは、ナンセンスだと思う。

 

合格・不合格

 

答案B

 落語には、江戸落語上方落語があって、徹底的に笑いを求める関西で高座にかけられる上方落語では、笑いの少ないネタは受けない、という言説がある。一方で、上方落語より人情噺や怪談が多い江戸落語では、笑いの少ないネタもよく口演される。

 人情噺や怪談が成立するためには悪が必要であり、悪にリアリティがあればあるほど、噺は面白くなる。そう考えるなら、落語の悪人の人生に思いをはせることも、落語の醍醐味の一つととらえられるのではないだろうか。当然、上方落語の愛好者の中にも、悪を考察する面白さを知る人もいるだろうから、一概に大阪でこんな噺は受けないなどと決めつけることはできまい。

 

合格・不合格

 

答案C

 帯久こと、帯屋久七は悪人なのか?

 借りた百両を返しに来て、それを泉屋が置いたまま中座してもどってこない。そこにそのまま大金を置いて立ち去るには、あまりに不用心である。そう考えて、後から改めて返しに来るつもりだったのか、それとも、最初からネコババするつもりでその百両を懐に入れて立ち去ったのか、落語ではその辺りがわからない。いや、わざとぼかしているのかもしれない。明瞭に示さないことが、かえって観客の想像力をかきたてる。ネコババするつもりはなかったけれど、年を越してしまって忘れていたのかもしれないが、ここで、また、葛藤があったのかもしれない。泉屋からもなんの問い合わせもないこともあって、年月を経てしまってからは、突っぱねざるを得なかった……

 いずれにせよ、善人であるがゆえに泉屋の罪は重いのではないだろうか。

 

合格・不合格

第11回 自己PRには他にどんな切り口があるのか?

 先日、自己PRについて、

「我慢強く物事に取り組むことを書こうと思っているんですが、どうもしっくりきません。どうすればいいんでしょうか?」

 という相談を、受け持っている学生からされました。

 入試にしろ就職活動にしろ、文書で提出する場合であっても面接で尋ねられるケースであっても、志望理由書ほど注視注力されないのが、自己PRではないかと思います。

 しかし、自己PRで何を書けばいいのか、あるいは皆が書いているような書き方でいいのか、といった疑問に迷わされることなく書ける学生は、どれほどいるでしょうか。

 日本人には自分の長所を自ら喧伝することを良しとしない文化があります。さらには、学生自身が自分についてよくわかっていないということも、自己PRがうまく書けない理由として考えられます。

 それでも、たとえば、「負けず嫌い」「我慢強い」「明るい」「やさしい」「積極的」「集中力」といった性格・性質を、根拠となる経験とともに書いて凌いでいるのが、実情かと思われます。ただ、相談に来た学生のように、そうした自己PRに得心のいかない人は、案外少なくないのではないかと思います。

 

 そこで、自己PRで何を書くのか、性格・性質の他に、どんな切り口があるのか、考えてみました。

 たとえば、

「私は、視点を変えて物事を見るようにしています」

「私は、すぐに役立つことばかりに目を向けていいのかと疑問に思っています」

「私は、ニュースを見るたびに、どうして世界から紛争がなくならないのか、と考えます」

 といった、普段心掛けていることや疑問、考えを示すことによって、一語で括ってしまうような性格・性質とは違った、まさに独自性のある自己PRできるのではないかと思います。

 これに、かつてはよく用いられた、座右の銘や好きな言葉などを示すという方法を加えて、自分がどんな信条を持っているのか、何を大切にしているのか、といったことを表現すると、さらにユニークな自己PRになります。

 こうした自己PRで合格可能性が上がるわけではありませんが、自己PRをどう書けばいいか、困ったときに試してみると、自分に関する発見があるかもしれません。

 学生は、はっと気が付いたように、新たな自己PRに取り組み始めました。

第9回 神戸市外国語大学2022年の現代文入試問題から考える事例。

 神戸市外国語大学の2022年の現代文は、隠岐さや香さんの『文系と理系はなぜ分かれたのか』より出題されています。

 出題の文章で述べられているのは、やわらかく言うと、「『生まれつきの才能』という考え方、特に、男女の違いだとか、人種、民族の違いだとかを根拠にして才能を論じることは差別につながるので、やめたほうがよい」ということです。

 研究調査結果を引用し、脳科学的な見解を示しながら、論を進めている評論文ですから、説得力があります。

 

 ところで、自分の才能の有無について考えた経験のある方は少なくないと思います。

 よく耳にするのが、少年野球から中学校で野球部に入り、さらに高校、大学と進むにつれて、自分に才能のないこと、自分以上に才能のあるものがいるということを思い知らされてあきらめた、といった話です。

 でも、誰かとの比較によって上手だとか下手だとかといったことにこだわらずに、自分で工夫してトレーニングを積むことの方が大切であると述べるプロフェッショナルも少なくありません。実際に、どのように考え、どのように工夫したか、というエピソードは、野球に限らず、いろいろ紹介されています。

 

 神戸市外国語大学の入試問題で出題された本文の趣旨としては、「生まれつきの才能が必要かどうかに関する問題の本質は、それが差別につながる」というところにありますが、ここから、身近に転がっている具体的な事例を考えだすことが、思考の遊びにもなります。

 

 たとえば、講談の世界では、かつては男の仕事であると断じていた先輩諸氏に肩身の狭い思いを強いられていた女性講談師も、現代では、特に東京では全講談師の半数以上の勢力を誇るほどになりました。

 小学生だった頃、算数の授業に納得がいかなかくて成績の振るわなかった方が、のちに数学を教える先生になっています。

 

 外国語を学ぶにあたって第一に重要なことは、良し悪しに関わらず、先入観、偏見を持たないことです。そのような学生を神戸市外国語大学が求めているのではないかと思います。

 

 大学の入試問題で、ちょいと遊んでみました。

 

  アチョー!

第10回 『レンガ職人』を『先生』に置き換えるとどうなるのか?

 『三人のレンガ職人』という寓話があります。

 旅人が、レンガを積んでいる男に、

「あなたは何をしているのですか?」

と尋ねたら、その男は、

「レンガを積んでいるんだ」

と答えました。

 次に、同じようにレンガを積んでいる男に出会った旅人が、

「あなたは何をしているのですか?」

と尋ねたら、

「壁を作っているんだ」

と答えました。

 さらに、レンガを積んでいる男に出会って旅人が、

「あなたは何をしているしているのですか?」

と尋ねたところ、

「大聖堂を作っているんだ」

と三人目の、その職人は答えました。

 

 仕事に取り組む心構えとして最近よく引用されているこの寓話をご存じの方も少なくないかと思います。

 これを、たとえば、先生に置き換えてみます。

 

 一人目の先生に、

「あなたは何をしているのですか?」

と問うと、

「勉強を教えているんだ」

と答えました。

 二人目の先生にも、

「あなたは何をしているのですか?」

と問うたら、

「勉強の楽しさを教えているんだ」

と答えました。

 三人目の先生にも、

「あなたは何をしているのですか?」

と尋ねたら、

「将来の人材を育てているんだ」

と答えました。

 

 答えは、これ以外にも考えられます。ほかの仕事にも置き換えることができるかと思います。

 ここから、〝なりたい私〟ではなく、〝どう生きたいのか?〟〝どんな人になりたいのか?〟を問うて、ディスカッションのテーマやレポートの課題にすることもできると思います。

 また、本題に入る前のツカミとしても使えるかと思います。

 

 てなところで、どないでっしゃろ?

 

 アチョー!

第8回 〝なりたい私〟をなぜ強いてはいけないのか?

 喫緊の敵は〝なりたい私〟です。

 ワタクシが高校三年生だった秋、三人の友人との間で、将来どうするかということが話題になったときに、友人は誰も〝なりたい私〟なんて明確なビジョンを持ってはいませんでした。中の一人は、

「家に帰ったら、温かいご飯とみそ汁が食べられる、それだけでいい」

 と、現代から考えれば、実にのんきな(もしくはジェンダー論に関わるような)ことを口にしていました。

 

  アチョー!

 

 ときどき依頼される講演で、

「正直なところ、〝なりたい私〟がない人?」

 という問いに、挙手する高校生は少なくありません。

 ところが、高校では、入試に必要な志望理由書を書かせるために、

「さあ、〝なりたい私〟を明確にして書きなさい」

 という指導をします。けれども、迷いなくそれが書ける高校生は、果たしてどれほどいるでしょうか?

 

  アチョー!

 

 そもそも〝なりたい私〟というワードを用いる指導は、どういうことを示唆しているのでしょうか?

 それは、先に正解を設定してからプロセスを明示するという、学校教育における既存の発想ではないでしょうか?

 具体的には、〝なりたい私〟=〝私の就きたい職業(仕事)〟に向けて、役に立つカリキュラムを有する、あるいは、資格の取得ができる貴学への進学を希望します、というシナリオを描くための方便のように思います。だから、表面上、ほころびのないように指摘する指導に終始することになって、

「最近の高校生は自分の将来についてしっかり考えてない」

 とか、

「ろくに文章も書けない」

 とか、嘆きながら、添削するという過重労働を、先生方は自らに課しているのではないでしょうか?

(それは違う! と断固としておっしゃる先生がいらっしゃったら、ゴメンなさい)

 

  アチョー!

 

 もちろん、〝なりたい私〟を明確にイメージできている人が、その仕事に携われるように努力を重ねることを否定するつもりは、毛頭ありません。

 しかし、志望理由書に記した〝なりたい私〟に向かっていたとして、あるいは、なれたとして、それから私はどう生きればいいのでしょうか?

 たとえば、医師を志してせっかく医学部に入っても、自分には向いていないと中途退学された方がいらっしゃいます。

 文系の大学で学ぶうちに、やっぱり建築を勉強したい、と建築が学べる大学に入り直した方もいらっしゃいます。

 高校時代に書いた〝なりたい私〟になっていたとしても、違和感を覚えて転職を試みる方も、少なからずいらっしゃいます。

 

  アチョー!

 

 むしろ問題は、〝なりたい私〟になってから、就きたい仕事についてから以降に生じるのではないでしょうか?

 ドラマなどでよくあるのが、自分の価値観と異なること、社会的には認められないと思われることに目をつぶって組織の大義名分に従え、と迫られる状況です。これに異を唱えると、

「もっと大人になれ」

 と言われます。拒めば、組織の中にあったはずの居場所を失います。

 実際の人生においても、こうした場面に遭遇する可能性が決して低くはないことを知る人は少なくありません。

 吉野源三郎さんの小説『君たちはどう生きるか』や宮崎駿監督の『君たちはどう生きるか』が人気を博し、高い評価を得ていることが、

「私はどう生きるか?」

「私はどう生きたいのか?」

 と、多くの人が自問していることを裏付けているのではないでしょうか?

 

 おそらく、定年退職後に直面するのは、〝なりたい私〟とは何か? ではなく、

「私はこれからどう生きていくのか?」

 ということではないかと思います。たとえ、〝なりたい私〟になっていたとしてもです。

 

 さて、どのように生きたいと思って、今、私はここにいるのでしょうか?

第7回 女神の求める条件とは何か?

「キミはボクの女神だ」

「女神? どういう女神なの?」

「美の女神に決まっているだろ」

「そんなの当たり前でしょ。それだけ?」

「幸運の女神だ」

「宝くじみたいに言わないでほしいわ」

「いや、幸福の女神だ」

「そうね、美しい幸福の女神ね」

「だから、ボクと一緒になってほしい」

「お断りよ」

「どうして?」

「アナタと一緒になったら、貧乏神に憑りつかれた、みすぼらしい女神になってしまうでしょ」

「でも、ボクはキミのために一生懸命に働くし、何より、愛があれば貧乏でも幸福になれるよ」

「アナタはね」

 

  アチョー!

 

 古今東西、人間が最も興味を抱く謎は、人間です。

 謎へのアプローチも、またその答も、一つではありません。十人十色、千差万別、多種多様。そこからさまざまな問いかけが新たに生まれます。

 かつて、山本リンダさんがお歌いになって大ヒットした『狙いうち』(作詞・阿久悠先生 作曲・戸倉俊一先生)の女性の如き、この幸福の美の女神を自認する女性は、もっと具体的に表現するなら、どのような女性だと言えるのでしょうか?あるいは、ほんとうのところは、どのような女性なのでしょうか?

 貧乏神と謗られた男は、どのような男だと考えられるでしょうか?

 振られる男が、意中の女性のハートを射抜くためには、どうすればいいのでしょうか?

 何より、この男を袖にした女神は、この先、幸福の女神であり続けられるでしょうか?

(何だか前回の続きで、もてない男の嫉妬心を吐露するような内容になってしまいました~)

 

  アチョー!

 

 さて、この女神と貧乏神の会話から、他にどのような謎が考えられるでしょうか?