第1回 [知らない]の裏に何があるのか?

 昨今、流行の〝思考〟は、何かの役に立つ、特にビジネス上の問題解決のために必要なテクニックのように扱われているように思います。効率第一主義を旗印にして、無駄を排除する〝思考〟は、なんだか面白くありません。

 そこで、これに〝遊戯〟を付けたのですが、かつてのカンフーアクションスター、ブルース・リーの『死亡遊戯』から盗用したようなタイトルになってしまいました。

「え? ブルース・リーを知らない?」

 亡くなって、もう五十年が経過していますから、「知らない」とおっしゃる方もいらっしゃるでしょう。

 では、[知らない]から【思考遊戯】を始めましょう。

 

  アチョー!(ブルース・リーが発する、化鳥?の如き叫び声です) 

 

 [知らない]は、相手の発した話題について、自分にはその知識がない、ということを宣言する言葉である、と一般には考えられています。

 でも、その認識だけでいいのしょうか?

 一般的なイメージだけで[知っている]つもりになっていると、【思考遊戯】を楽しむことはできません。

 たとえば、知識がなくても[知らない]を口にしない方もおられます。自分が知らないということを他人には知られたくない、というような心理が働いているケースは、むしろ多いと言えるかもしれません。[知らない]ということは[恥ずかしい]ことだという、日本人特有の意識が、その根底にあるのでしょう。

 しかし、日本人がそうなってしまったのは、学校で正解を求め続けられてきたせいかもしれません。(知らんけど……)

 

  アチョー!

 

 にも関わらず、[知らない]と殊更に言う人には、果たしてどんな心理が働いているのでしょうか?

 一つには、知らないことは教えてもらえばいい、という、日本人離れした態度が、その人に備わっているためかもしれません。[知らない]の後に、「だから、教えてください」と言う方です。

 あるいは、先に恥を晒すことによって、逆に自分をアピールしているのかもしれません。「私は、そんなことも知らない人間なんですよ~!」と。  

 その他、いかにもそれらしいことをしゃべりたおした大阪のおばちゃんが、話の最後に「知らんけど」と言うのをちょいちょい耳にします(大阪のおばちゃんではありませんが、ワタクシも使ってしまいました)が、これは、発言の責任を回避するためかと思われます。(白状します。ワタクシは回避するために使いましたぁ……)

 上方落語の『近日息子』には、過去、言いそこなった言葉について、どれほど追及されても「知らん」ととぼける男にエスカレートして怒る友だちが出てきます。

「菊人形、皆で見にいきましょ、と私が言うたときに、あんた、行きましょ、行きましょ、せわかたへ、と言うた。それも言うなら、枚方やおまへんか、そう私が言うたら、そうそう、そのかた、そのかた、言いましたな」

「知りまへんなぁ」

「あんたいっつもそうや、知らんと言うて、間違うてました、すんまへんと言わん!」

「いや、そんなん、知りまへん」

「ほたら、もっと言うたりましょか!!!」

 自分の過去の失態を蒸し返されることを好む方はいらっしゃいません。ましてや、「知らん」ととぼけ通す男は、普段から「アホ」と言われているので、少しでもプライドを保とうとしているのではないでしょうか。

 取材のマイクを向けられて、「知らない」しか言わない著名人は、不都合な話題を遮断するためにそうするのでしょう。不都合な真実が露見しないように、そこに触れそうな話題、キーワードが出た瞬間、[知らない]と嘯く輩も、身近に見かけます。

 

 さて、「知らない」を口にする人がそのいずれかに当てはまるのだとしたら、[知っている]を連発する方は、どんな人なのでしょうか?